歴史・由来

御祭神

浅野長政命(あさの ながまさのみこと)

浅野家初代・近江国浅井郡小谷生れ・浅野長勝の養子・近江の国・五奉行筆頭・若狭の国小浜城主・甲斐の国二十二万五千石・常陸国真壁筑波二群五万石へ隠居・慶長16年(1611)4月7日帰幽 65歳

浅野末津姫命(あさの まつひめのみこと)

長政公の奥方・良良(やや)・・・豊臣秀吉の奥方・寧寧(ねね)の妹・明治元年合祀

浅野幸長命(あさの よしながのみこと)

浅野家二代・長政長男・奥方は加賀の国・前田利家の娘米姫・紀伊の国三十七万六千五百六十石を領す・慶長18年(1613)8月25日帰幽 38歳・大正14年合祀

浅野長晟命(あさの ながあきらのみこと)

浅野家三代・長政次男・芸州浅野家初代藩主 奥方は家康の三女振姫 元和5年(1619年)広島入国安芸および備後国八群の計四十二万六千五百石を領す・寛永9年(1632)9月3日帰幽 47歳・大正14年合祀

浅野長勲命(あさの ながことのみこと)

浅野家十四代・芸州浅野家最後の藩主・初代広島県令・昭和12年(1937)2月1日帰幽 96歳・昭和15年合祀

浅野家関連系図

浅野家関連系図

広島城の歴代城主 ( ) 印内の数字は浅野家歴代の藩主を示す

代順城主名在城治世期間
(西暦)
年数
1
もうりてるもと
毛利輝元
天正19~慶長5
(1591~1600)
約10年
2ふくしままさのり
福島正則
慶長5~元和5
(1600~1619)
約19年
3あさの ながあきら
(1) 浅野長晟
元和5~寛永9
(1619~1632)
約13年
4あさの みつあきら
(2) 〃 光晟
寛永9~寛文12
(1632~1672)
約40年
5あさの つなあきら
(3) 〃 綱晟
寛文12~寛文13
(1672~1673)
約1年
6
あさの つななが
(4) 〃 綱長
寛文13~宝永5
(1673~1708)
約35年
7あさの よしなが
(5) 〃 吉長
宝永5~宝暦2
(1708~1752)
約44年
8あさの むねつね
(6) 〃 宗恒
宝暦2~宝暦13
(1752~1763)
約11年
9あさの しげあきら
(7) 〃 重晟
宝暦13~寛政11
(1763~1799)
約37年
10あさの なりかた
(8) 〃 斉賢
寛政11~文政13
(1799~1830)
約31年
11あさの なりたか
(9) 〃 斉粛
天保2~安政5
(1831~1858)
約27年
12あさの よしてる
(10) 〃 慶熾
安政5~安政5
(1858~1858)
約1年
13あさの ながみち
(11) 〃 長訓
安政5~明治2
(1858~1869)
約10年
14あさの ながこと
(12) 〃 長勲
明治2~明治4
(1869~1871)
約3年

神社 社紋

神社 社紋

宝永3年(1706年)綱長公(浅野家第6代・芸州浅野家藩主第4代)の時に、広島城の艮(うしとら/東北鬼門)の方位に当る明星院客殿西方に長政公の位牌堂を建立。

さらに長政公200回御忌に当る文化7年(1810年)に斎賢(なりかた)公(浅野家第10代)、前藩主重晟(しげあきら)公(浅野家9代)と共に新たに壮麗な位牌堂を建立した。この位牌堂は饒津神社の先駆的なものであり、この時奉納された文化年間の燈篭や大石水盤等は後に饒津神社創立と共に境内に移されて現存している。 長政公を神として奉祀することは重晟公以来内慮があり 天保6年(1835年)11月斎粛(なりたか)公(浅野家11代)が祖先追孝のため社殿を現在地(明星院西方)に造営、二葉山御社と称した。

二葉山の名は饒津神社創祀の際に金葉集・摂政左大臣藤原忠通卿への歌「いかばかり 神もうれしと 三笠山 二葉の松の 千代のけしきを」 新続古今集・後徳大寺左大臣の歌「住吉の 松は昔の 二葉より 久しき事の ためしにぞひく」より藩執政関蔵人らによって命名されたものである。これより明星院山であった背後の山は二葉山と呼ばれるようになった。

御神号は京都・吉田良長に草案を依頼し、「蒼垣・饒津・功健・瑞国・振玉」の五通りが示され、長懋(ながとし)公(斎粛公の叔父)の御選択により「饒津大明神」と定められた。

饒津の意味

饒…じょう・豊・食物やものが十分である。土地が肥えている。

津…港・船着場・川辺・海辺。

「広島の町が物が豊かな水の都となるように」

饒津の意味

明治34年境内図

明治34年境内図

また、藩より三百石が奉献され、明星院を別当寺としたが、明治元年の神仏分離により本殿裏山にあった本地堂は破却され、明星院は別当寺を解かれた。

明治元年11月14日・太祖長政公の夫人末津姫を配祀、社名も饒津神社と改め、明治6年県社に列し、明治7年には広島県より境内地を饒津公園と指定された。

昭和20年原爆被災のため本殿以下諸施設及び能面三面(重要美術品)を焼失、同21年仮殿を建て、同24年戦前より大幅に縮小した本殿、27年拝殿、29年幣殿をそれぞれ再建した。

昭和59年6月広島市の道路計画に基いて境内地の一部を譲渡したのを機に本殿、拝殿、中門、瑞垣等を戦前の姿に復し、平成12年向唐門・平成17年両部鳥居を復元。平成22年戦後復興の集大成として御祭神浅野長政命薨去(こうきょ)400年祭を催行、現在に至る。

なお、御祭神浅野長勲公は初代広島県知事(県令)であった。

鉄道唱歌に唄われた饒津神社

第二集 山陽・九州編 明治33年9月 大和田建樹作詞

  北には饒津の公園地  西には宇品の新港

  内海波も静かなり   呉軍港は近くして

原子爆弾との関わり

昭和20年8月6日午前8時15分、原子爆弾が炸裂。
爆心地より1,800メートル。全ての建物は焼失し、石造物と十数本の松のみが残る。
石造物の手水鉢や唐門周辺の敷石が欠落・ひび割れ・変形しているのは、それぞれ手水舎の建物や唐門が焼け落ち、その炎熱による損傷であり、石灯篭の被害も見える。昭和59年、本殿拝殿社務所などを復興したが、傷んだ石造物は補修せず原爆被災の証としてそのまま残した。
平成15年には饒津神社の歴史とともに歩んだ被爆松の最後の一本が枯れ、切株の一部は保存した。

被爆体験者が減少の一途をたどる現在、被爆地の神社として、犠牲者の慰霊鎮魂を祈ることは申すまでもないことである。更に当時の状況を整理し、神社復興に際しては被爆の証となるものも一部は保存し、核兵器の廃絶を叫びつづけ原爆の悲惨さを語り継ぐ「鎮守の森の語り部」となることの必要性を感じるとともに、四季折々の「祭」を通じて忘れかけている本来の美しき日本の習俗・習慣・伝統・文化を現代的なものも加味しつつ、後世に受け継ぎたいものである。

被爆直後の状況

『広島原爆戦災誌』によると「饒津神社は市の中心部から離れた二葉山山麓(爆心地から東北1,800メートル)にあり、境内には老松林立して、一般市民の避難場所に指定されていたほどであったから、安全性高いものと考えられ、社宝その他一切のものを疎開しないでいた。境内の能舞台は、白島国民学校の林間学校として解放され、被爆当時、すでに数人の児童がきていた」とある。

壮麗を極めた社殿は一瞬にして倒壊或いは大破傾斜し、放射線熱により、本殿から出火、次々に延焼し社殿・付属建物は一宇残こらず灰燼に帰し、国の重要美術品・木造能面三面(三番叟・痩女・翁)も焼失した。

浅野長政公・末津姫・幸長公・長晟公・長勲公五柱の御神璽は焼跡より奇跡的に発見、一時、東照宮へ奉遷した。老松は無惨に吹き倒され、百余基の石燈篭は擬宝珠が吹き飛ばされたり倒壊し、火災の高熱により豪壮な大石階や基壇の石も無惨に焼損してしまった。被爆後、境内には多数の市民が避難してきて修羅場と化し、臨時救護所が設置された。

また、福岡方面から軍の工作隊が来援、神社境内にテントを張り3か月位駐屯し町内会の事後対策に協力した。さらに、避難した被災者に対して6日夜にはにぎり飯が運び込まれたが、3日後にはその救援も途絶え、軍よりのカンパンで飢えを凌いだ。

なお昭和20年11月末頃までに神社境内を中心としてバラック建住宅が30戸程建った。当時の事情としては致し方ないことではあったが、その後の立退きに関しては多大の歳月を要した。

当時、呉海軍工厰・火工部設計係(呉市吉浦町)勤務のO・M氏(海田町在住・当時31才)は8月7日・20日の2度、広島に入っている。 7日は学徒動員で京橋町・ミシン縫作業所勤務の妹探し、20日は被災状況撮影(饒津神社を含む)のためであった。

この2日間の違いについて同氏は聞き取り調査の話の中で次のように語っている。
「キノコ雲を見たときは原子爆弾とは判らなかった。7日・的場町でトラックから降り、広島駅・大須賀踏切・二葉の里・常盤橋・白島・八丁堀と妹の姿を探し求め歩いた。その途中は死体の山・道や川に倒れた瀕死の重傷者・水を求める人・肉親を探し求め歩く人・死臭・焼けただれた樹木・焼け落ちた建物等々、それは正に悲惨を極めた地獄絵図であった。

ところが、20日・被災状況を記録に留めるべく広島に入ったときには瓦礫の下の死体の外は取り片付けられ茶毘に付され、人々の往来もほとんど無かった。まさに死の町と化していた。一瞬にして十数万の人々を抹殺してしまう原爆の残酷さを肌で感じると共に、人影のまったく無い廃墟の町並みでカメラのシャッターを切ったときには、背筋に不気味な恐怖を感じたものである。饒津神社の境内にも勿論人影は見当たらず、樹木の黒く焼け残った幹が印象に残っている。」妹さんは8日、無事海田の実家に辿り着かれたようである。

原爆投下後

この石碑の写真は、昭和20年8月20日同氏撮影のものである。

原爆投下後
二葉山 山麓 七福神めぐり

広島新幹線口より2時間足らずで
全ての社寺が参拝できます。

お問合せ

神社概要

神社名:饒津神社

住所:
〒732-0057
広島県広島市東区二葉の里2-6-34

電話:082-261-4616

FAX:082-261-4619

JR広島駅新幹線口(北口)から西へ徒歩15分