境内案内

境内マップ

境内マップ
  1. 本殿
  2. 御陣中御手水鉢
  3. 稲荷神社 拝殿
  4. 拝殿 稲荷神社
  5. 饒津神社復興記念碑
  6. 石水盤石灯籠銘碑(せきすいばんいしどうろうめいひ)
  7. 「淺野長勲」公頌徳碑
  8. 社務所
  9. 追遠歸厚碑(ついえんこうひ)
  10. 饒津神社四百年祭斎行記念碑
  11. 向唐門(むかいからもん)
  12. 手水舎
  13. 二の鳥居
  14. 狛犬
  15. 二恵比須神像(二葉の里 七福神めぐり)
  16. 「桑宅木原(そうたくきはら)」翁之碑
  17. 「小石河野(しょうせきこうの)」先生碑
  18. 「虎山坂井(こざんさかい)」先生之碑
  19. 北清事變忠死者紀念之碑
  20. 陸軍檢疫部職員死者追悼ノ碑
  21. 広島県立広島工業高等学校記念碑
  22. 被爆松
  23. 標柱(しめばしら)及び説明碑
    A.B.  広島市指定保存樹

1. 本殿

三間社入母屋造(この場合の「間」は柱の間の数を表し、寸法の単位とは異なる)。
向拝唐破風付銅板葺(間口2間5尺3寸奥行3間8寸)
昭和59年再建

本殿

2. 御陣中御手水鉢

御祭神「浅野長政」公が肥前国、名護屋城(佐賀県)内御陣屋(弾正郭(だんじょうぐるわ))でご愛用されたもの。
天明五年(1785年)浅野家9代藩主重晟(しげあきら)公の時、御泉邸(縮景園)の清風館へ移設。
天保六年(1835年)当社造営の時「御陣中御手水鉢」として現在地に設置。
「殊外古物甚(ことのほかふるきものはなはだ)面白き石手水鉢」と称された。

御陣中御手水鉢

3. 稲荷神社

稲荷神社

4. 拝殿

桁行5間、梁間3間、入母屋造、平入、向拝1間、背面に幣殿を接続
銅板葺
昭和59年再建

拝殿
拝殿

各種記念碑

5. 饒津神社復興記念碑

饒津神社復興記念碑

饒津神社は天保6年(1835年)当時の広島藩主浅野斎粛公が創建された 昭和20年8月6日原子爆弾により神社建築物はすべて灰燼に帰しその後久しく仮社殿のままであった

昭和57年広島市の道路計画にもとづいて神社境内地の一部を市に譲渡したのを機に新たに本殿拝殿中門瑞垣手水舎社務所職舎を復興し本日竣功奉告祭を斎行した
ここに当事業の完成を祝い記念碑を建てる

6. 石水盤石灯籠銘碑

石水盤石灯籠銘碑

文化7年(1810年)浅野長政公200回忌法要が明星院で営まれた際手水鉢・石燈篭を奉納した272名の刻名。
天保6年(1835年)饒津神社創建の時に移設。
奉納者は「浅野長晟」公、紀伊国(和歌山)より安芸の国入国(元和5年1619年)に随従した人達の文化7年時に於ける子孫。
頌徳文は頼山陽の父弥太郎の撰。手水鉢(唐門下)は原爆遺跡として保存。

7. 「淺野長勲」公頌徳碑

「淺野長勲」公頌徳碑

浅野家第14代・芸州広島藩最後の藩主。広島県初代知事(県令)。
昭和12年(1937年)2月1日、96歳没。
昭和15年饒津神社に祀られる。以来毎年2月1日・長勲公御例祭を斎行。

8. 社務所

社務所

9. 追遠歸厚碑(ついえんきこうひ)

追遠会は旧藩主浅野家累代の恩義を忘れず祖先の功労を追懐し互いに素行を慎み相互の親睦をはかると共に饒津神社を崇敬奉賛することを目的として、明治30年12月19日創立され、浅野長勲公が命名された
ここに本年創立100周年を迎えるに当り文化7年の記念碑に倣い全会員の氏名を刻み第17代御当主をお迎えし、平成9年12月7日に神事斎行の上除幕式を行った

「追遠歸厚」とは論語の「慎終追遠民徳歸厚」(終わりを慎み遠きを追えば民の徳厚きに帰せん)より選ばれたもので、その意味は「先祖の徳、昔の事を思いしのぶ」というこどである。

追遠歸厚碑

10. 饒津神社四百年祭斎行記念碑

御祭神「浅野長政」公が慶長16年・西暦1611年4月7日薨去せられ平成22年・西暦2010年4月4日 400年祭を斎行した
前回の300年祭では 明治43年・西暦1910年城下町広島全市をあげて市民による華麗なる奉祝祭及び行事が12日間に亘り執り行われた
その後 昭和20年・西暦1945年8月6日の原子爆弾により神社建造物は、悉く灰燼に帰するとともに終戦による神道指令の発令により神社界は大きな打撃を受けた
昭和59年本殿・内玉垣・中門・外玉垣・拝殿を戦前の姿に復元し、手水舎・社務所及び職舎を復興した
平成12年向唐門 平成17年両部大鳥居を戦前の姿に復元した。その復興事業には60余年の歳月を要した
ここに400年祭の概要を記し記念碑を建立する

一、 祭典  平成22年4月4日
一、 式典  平成22年4月4日
  記念講演 「広島と饒津神社の関わり」

祝宴 ホテルグランヴィア広島 参加者 150余名
一、 神能 平成22年4月3日
  饒津神社唐門内特設能舞台

一、 献茶祭

  表千家永田社中梅右会  4月48日
  上田宗箇流家元  4月29日
          饒津神社 拝殿 社務所

一、 記念事業
  唐門復元  平成12年8月20日竣功
  両部大鳥居復元  平成17年12月11日竣功
  七福神巡り・恵比須石像  平成18年12月16日設置
  境内整備  平成21年6月完了
  四百年祭斎行記念碑建立  平成22年4月4日設置

饒津神社四百年祭斎行記念碑

11. 向唐門(むかいからもん)

昭和20年原爆で焼失した旧向唐門の礎石の上に再建。龍の彫刻等細部を忠実に復元した(礎石は原爆当時のまま残した)。向唐門は格式上将軍や藩主を祀る神社に用いられた。平成12年8月吉日 再建。

向唐門

12. 手水舎

原爆の炸裂による強烈な爆風のため、本殿唐門などの建物が一瞬にして破壊されました。その直後本殿から出火し、他の建物も次々と延焼していきました。爆風により、境内の樹木は吹き倒され、参道の石灯籠も倒されました。境内には、燃え盛る市内から大勢の人々が避難してきて、臨時の救護所が設けられました。


 平成29年7月20日、浅野長晟入城400年記念事業の一環として、72年ぶりに手水鉢の使用を再開いたしました。水漏れなどの最低限の補修工事に留め、表面の欠損・割れは被爆の痕跡として後世に遺します。

被爆手水鉢
被爆手水鉢

①今まで使用していた手水舎屋根の移動準備。

②手水舎屋根の移動中。   

③ここに屋根が移設される。

④手水舎屋根移設完了。

(平成29年7月14日)

13. 二の鳥居/狛犬

昭和20年の原爆により神社は悉く灰燼に帰したが、昭和59年本殿・拝殿・社務所、平成12年・唐門の復興を遂げる事ができた。
平成24年、400年祭を迎えるに当って、記念事業の一環として、原爆で失われていた宮島型の檜造大鳥居(両部鳥居)を平成17年・60余年振りに復元した。この大唐門・両部大鳥居・大狛犬の三大建造物は、戦前の神社の威容を再現するものと言える。

二の鳥居
鳥居詳細
樹齢200年の国産檜(島根県)
鳥居の柱直径 70cm
高さ 8m
笠木長さ 9m
島木長さ 8m50cm
鳥居の貫長さ 8m50cm
稚児柱高さ 3m25cm
太さ 35cm角
稚児柱の貫長さ 5m

14. 二の鳥居/狛犬

狛犬

15. 恵比須石像(二葉の里七福神巡り)

恵比須天は、鯛と釣竿を持った姿で、もともとは漁業の神。後に商売繁盛の神さまとして広く信仰されるようになっていった。不景気の時はそれを吹き飛ばし、好況の時はそれを持続発展させ、私達に福徳円満をくまなく与えて下さいます。

恵比須石像(二葉の里七福神巡り)

七社寺会七福神めぐり・恵比須天石像設置

七社寺

饒津神社・・・恵比須天、明星院・・・毘紗門天、鶴羽根神社・・・弁財天、広島東照宮・・・福禄寿、尾長天満宮・・・寿老人、國前寺・・・大黒天、聖光寺・・・布袋

恵比須天・案内文

釣り上げし 魚(うお)を宝と 抱きしめて 笑う恵比須の 神の御威徳(ごいとく)
二葉山山麓七福神めぐり

広島新幹線口より2時間足らずで
全ての社寺が参拝できます。

16. 「桑宅木原(そうたくきはら)」翁之碑

文化13年(1816年)2月30日~明治14年(1881年)8月25日。
66歳。儒医。諱(いみな)は籍之、字(あざな)は君茅、桑宅は号、通称は慎斎、後、慎一郎と改める。
晩年は燃白老人と号す。
はじめ医者として藩に仕えたが、文久2年(1862年)儒官となり、学問所教授、供頭添役次席に進み、禄百石を給せられる。墓は広島市東区山根町の瑞川寺(聖光寺)にある。この碑は門人らによって建てられたものである。

「桑宅木原(そうたくきはら)」翁之碑

17. 「小石河野(しょうせきこうの)」先生碑

文政6年(1823年)9月~明治28年(1895年)1月23日。
72歳。幕末・維新期の広島藩士。名は徴、字は文献、通称は金蔵、小石または視庵と号す。
12歳のとき頼聿庵(らいいつあん)(父は頼山陽)に入門文久3年(1863年)には藩儒となり、明治2年(1869年)8月、浅野長勲の侍講となる。
墓は広島市中区小町の戒善寺にある。

「小石河野(しょうせきこうの)」先生碑

18. 「虎山坂井(こざんさかい)」先生之碑

寛政10年(1798年)~嘉永3年(1850年)9月6日。53歳。
広島藩の儒学者。名は公実、諱(いみな)は華。通称百太郎、臥虎山人・虎山などと号す。幼少のころから勉学に励み、文政8年(1825年)には藩学教授となり、別に五人扶持を賜った。

天保8年(1837年)には江戸に上り、古賀侗庵、松崎慊堂、佐藤一斎らと交流し名声をはせた。
著書に『杞国策』『論語講義』がある。墓は広島市中区小町の本照寺にある。
この碑は門人らによって建てられた頌徳碑でその事蹟を伝えている。

「虎山坂井(こざんさかい)」先生之碑
「桑宅木原翁之碑」「小石河野先生碑」「虎山坂井先生之碑」

この三基は現在の生長の家北詰にあったようである。さらに生長の家へ売却時に西側道路付近に移転。昭和59年道路用地買収により現在地に移動。
この隣あたりには「船越衞」公の銅像が存在していたようであるが現在は無い。

19. 北清事變忠死者紀念之碑

明治32年(1899年)より明治33年に列強の進出に抗した中国民衆の外国人排斥運動(義和団事件)に対し日・英・米・露・独・仏・伊・墺の8ヵ国は連合軍を組織してこれを鎮定(日本では北清事変と呼称)。
広島市に拠点を置く歩兵第11連隊はその一翼を担い出兵。
238名の戦死者名を刻字し、慰霊・追悼し、顕彰した。
平成19年、この頭上に設置されていた「鷹(戦時中供出)」を復元した。
これを復元した意義は「国の為に亡くなった「戦没者の慰霊鎮魂」と「歴史に学び平和を希求し、更に平和による繁栄を願う」シンボルにすることである。
「慰霊鎮魂と平和と繁栄」の祈りを明確にして「黒色の鷹」から希望に輝く「金色の鷹(神社の御社紋も鷹の羽)」で復元した。
昭和59年道路用地買収により現在地より南に約20m辺りあったものを現在地に移動。

北清事變忠死者紀念之碑

20. 陸軍檢疫部職員死者追悼ノ碑

陸軍検疫所は、日清戦争帰還兵を介して伝染病の国内侵入を防止する目的で、明治28年(1895年)似島に開設された。のちに広島検疫所と改名。
船舶682隻232、346名の検疫を行った。この検疫業務で53名の職員が病気等に感染して死亡、追悼碑にその氏名を刻み功績を称えた。
現在の生長の家側駐車場の奥にあったものを駐車場造成時に現在地に移動。

陸軍檢疫部職員死者追悼ノ碑

21. 広島県立広島工業高等学校記念碑

[表]
広島県職工学校(現広島県立広島工業高等学校)開校の地

[裏]
明治30年(1897年)8月1日広島県令甲第40号により
この地に開校する。
平成9年(1997年)11月15日
広島県立広島工業高等学校
創立百周年記念事業実行委員会

広島県立広島工業高等学校記念碑

22. 被爆松

当神社の参道には創建時(天保6年・1835年)植栽した黒松が林立し、原爆前は二十数本の大木が参道を覆い壮大な松並木であった。
昭和20年8月6日の原爆により、御社殿等建造物はすべて一瞬にして倒壊後炎上灰塵に帰した。(当神社は爆心地から東北約1800mの地点)
また、松並木も熱風や爆風による損傷・倒木の被害を受けたが十数本の松は生き延び、その後松喰虫や大気汚染で次第に枯れ、最後の一本のみとなった。
被爆を伝える貴重な松として種々養生を加え大切に管理したが、樹勢が衰え平成15年1月枯れた。
ここに広島の歴史・神社の伝統・原爆の鎮魂の証としてこの切株を保存する。
年輪から見た樹齢は、約170年と推定され神社の創建時とほぼ一致する。
外周の年輪の詰まった部分は、原爆の熱風や爆風で枝葉が焼け落ち吹き飛ばされ、成長が遅れた部分(矢印の間)と見なされこの間約二十数年と鑑定されている。
切株保存の覆屋はこの被爆松を材料として建てた。
なお、原爆直後、境内のこのあたりには大勢の負傷者が避難し惨状を呈した場所である。

被爆松
被爆松

枯れる寸前の最後の被爆松(平成15年1月)

枯れる寸前の最後の被爆松(平成15年1月)

23. 標柱(しめばしら)及び説明碑

標柱

標柱

明治43年(1910年)5月15日より26日までの12日間に亘り行われた御祭神「浅野長政」公300年祭に、旧広島藩縁の同進社より奉納されたもの。(高さ670cm 幅83cm 広島県最大の規模)

標柱の説明碑

標柱の説明碑

A.B. 広島市指定保存樹

クスノキ・1本(広幅石段左上・樹高16m 幹周223cm)

クスノキ

ケヤキ(右)1本・エノキ(左)1本、合体木(連理木・北清事変記念碑左横)

ケヤキ(右)1本・エノキ(左)1本

ケヤキ 樹高15m 幹周188cm
エノキ 樹高15m 幹周125cm

平成24年3月31日・広島市保存樹に指定

連理木(れんりぼく・れんりぎ)

2本の樹木の枝、あるいは1本の樹木の一旦分かれた枝が癒着結合したもの。
自然界においては少なからず見られるが、一つの枝が他の枝と連なって、理(木目)が通じた様が吉兆とされ、「縁結び」「夫婦和合」などの象徴として信仰の対象ともなっている。

なお、違う品種同士で連理となる場合もある。このケヤキ・エノキはこれに該当する。

「語 源」

白居易の『長恨歌』

在天願作比翼鳥、在地願為連理枝
天に在りては願わくは比翼の鳥となり、
地に在りては願わくは連理の枝とならん

記念樹

記念樹

 二の鳥居付近、松1本。明治100年記念(昭和43年頃)

記念樹

 社務所前・檜・2本(昭和51年頃、伊勢神宮林檜枝落し奉仕記念に授かった苗木2本 当時約30cm程の高さ)

記念樹

 拝殿左横・楠・1本・平成の御大典記念(平成2年11月22日)

記念樹

 「浅野家と広島の歴史に学ぶ会」による長政公薨去
  四百年祭記念
  「枝垂れ桜」植樹奉納(平成22年11月19日)

その他

境内の全石灯籠

境内の全石灯籠

浅野家家臣奉納の石灯籠127基(現在確認できるもの)

23基

饒津神社創建以前のもの・文化7年(1810年)、浅野長政200回忌が明星院で営まれたときに寄進されたもの

88基

天保6年~11年(1835年~1840年)、神社創建時に寄進されたもの

16基

宝暦14年(1764年)・2基  明和9年(1772年)・2基
安永3年(1774年)・4基  弘化3年(1846年)・2基

不明・6基

境内の石垣

(石垣の境目の色は、違いを明確にする為のもので実際に色はついておりません)

饒津神社の境内地は二葉山の麓を造成したもので、境内は4段の台地に分かれ、その境に当たる3か所に石垣が築かれている。天保6年(1835年)の築造で、石どうしの隙間が全くない、切り込みハギという高度な技法を用いている。

「本殿前」布積み

「本殿前」布積み

本殿前という厳粛な場所であるため、伝統的な通常の布積みとなっている。
横方向に目地が通っているのが布積みの特徴。

「唐門下」布積み

「唐門下」布積み

細長い長方形の石材を横に3段に積んだ単純な布積みであるが、使用されている石材は一つずつが長大で、それまでの石垣の概念とはかけ離れた趣である。
藩主だけが目にできた江戸城本丸下の中の門脇石垣に習ったものかもしれない

「拝殿前」乱積み①

「拝殿前」乱積み①

形や大きさが異なる石材を一つずつ擦り合わせ組み上げており、横方向に目地が通らない乱積みである。
通常の乱積みには見られない大胆で斬新な石使いで、モザイクやジグソーパズルを思わせる模様を作っている。

拝殿前の石垣に連なる「石段」

拝殿前の石垣に連なる「石段」

この石垣に連なる「25m幅の石段」は江戸時代までに参道として作られた階段の中では、間口の広さ、長大な切石を使っている点で、拝殿前乱積とともに江戸時代のものとしては最大級のものと評価される。

「拝殿前」乱積み②

「拝殿前」乱積み②

隣接している「明星院」幼稚園園舎建替工事により、一時的に現れた石垣。(現在は一望できない)

「認定証」

「認定証」

中国地方石垣百選
認定証 平成22年11月14日

二葉山 山麓 七福神めぐり

広島新幹線口より2時間足らずで
全ての社寺が参拝できます。

お問合せ

神社概要

神社名:饒津神社

住所:
〒732-0057
広島県広島市東区二葉の里2-6-34

電話:082-261-4616

FAX:082-261-4619

JR広島駅新幹線口(北口)から西へ徒歩15分